最強の虫除けTシャツ
或る夏の夜の、奇妙な解決策
真夏の夜だった。アスファルトは昼間の熱を抱え込み、それがじわりと空気に溶け出していた。東京の、どこにでもあるような夏の夜の道を、二人の女が歩いていた。アイナとチエ。どちらも仕事帰り、酒の勢いを借りてあてもなく歩いていた。アイナはハイボールを三杯、チエはワインを二杯。
その微かな酩酊が、思考を自由奔放にさせていた。
「ねえ、私思うんだけどさ」アイナが、うなじを掻きながら言った。「もし私が、あの『進撃の巨人』のエレンだったら、真っ先に駆逐するのは蚊だね。蚊って、どうすればこの世から抹殺できるのかね」
チエはまるで哲学者のように首を傾げた。
「どうにもならないでしょう。彼らはどこにでもいるでしょうし」「だって蚊って、何の役にも立たないじゃない。存在意義が不明よ」アイナは不満げに吐き捨てる。
「そんなこと言わないであげて、彼らだって生態系の一員だよ。花粉を運んだりもする」チエは、少し蚊を擁護しつつアイナをなだめようとしている。
「それは蜜蜂に任せておけばいいのよ!」アイナは一蹴した。「それに、蛾とか、よく分からないカナブンとか、変な虫が湧いてくるでしょう。ああいうの、全部嫌いなの。虫が嫌い」
チエはアイナの腕に目をやり、「さっき虫除けスプレー使ってたじゃない。あれは?」と尋ねた。
「どうにもならないのよ。あれだけ振りかけたのにこんなに寄ってくるんだから。肌も荒れそうだし。まず自分にアルコール入ってるのがよろしくない」と、腕を振りながらうんざりした様子で答えた。
「蚊取り線香とかハッカ油とかは?」チエが別の選択肢を提案する。
「蚊取り線香は持ち運べないし会社じゃ使えない。ハッカ油は匂いが強烈で、昔上司に『お前、臭いぞ』って言われたことがあるの。こっちがスメハラであっちがパワハラ」
「家で使えばいいじゃないの」
「それもダメなのよ。家には愛しき猫ちゃんがいるから匂いや煙は良くない気がするのよね」アイナは、愛猫への細やかな配慮を口にしたと同時に、突然真面目な顔になった。
「私はね、できるだけ虫の命を奪いたくないの。でも虫除けスプレーとかハッカ油とか、煩わしいものはつけたくない。そして、蚊には刺されたくない。いい?虫の命は奪わず、自分の周りには近寄ってきてほしくないの」
チエは少し呆れたように言った。「さっきは蚊を駆逐すると言っていたのに」
「蚊の野郎は駆逐する!他の虫はダメ」きっぱりと言い放った。
「なるほど、傷つけずに追い払う方法ね」チエはアイナの矛盾を指摘しつつ、新たな目標を整理した。
「そういえば、足の裏を洗うと蚊に刺されなくなるって話聞いたことあるよ」チエが、ふと思い出したように語り始めた。「妹が蚊に刺されやすくて、可哀想にって思ってた兄が研究したらしいんだけど、妹だけ足が少し臭くて。兄は臭くない。それで、足を洗ったら刺されなくなったって。ちゃんとした研究なのか論文も出してた気がする」
「そんなの、毎回蚊に刺されそうになるたんびに家に帰って足洗うなんて無理よ!もっと手軽にできる方法はないの!?」アイナは即座に却下した。
「手軽に、か…」チエは腕を組み、思案に暮れる。
「牛を横に連れて散歩するとか?」アイナが、また突拍子もないことを言い出した。「牛ってお尻のあたりに蚊とかハエがすごい群がってるじゃない。自分より血を吸いやすいのが近くにいれば、みんなそっちに行くでしょ。避雷針みたいなものよ。匂いもすごいし」
チエは、ため息をついた。「牛を連れてどこへ行くのよ。アルプスの草原ならまだしも、ここは東京のコンクリートジャングルよ」
「そういえば」チエがまた何かを思いついた。「オニヤンマの模型が虫除けに効果的って話聞いたことあるよ。オニヤンマは虫界の生態系ヒエラルキーのトップだから、その姿を見ると他の虫が逃げ出すらしいの。オニヤンマの模型を軒先に吊るしておけば虫が寄ってこなくなるって」
アイナの目が輝いた。「なるほど!オニヤンマを身につければいいのか!よし、今すぐオニヤンマを捕まえてくるわ」
「そんなことしたら、可愛いオニヤンマを肩に乗せた電波少女みたいになっちゃうけど、いいの?」チエが、少し意地悪な顔で言った。
「だめでしょう……模型もずっと肩に乗せてられないしな」がっかりした様子だったが、すぐに閃いた。「じゃあ、オニヤンマを体に貼り付ければいいんじゃない?オニヤンマが描かれたTシャツを着ればいいのよ!そうすればオニヤンマがそこにいるって虫には分かるでしょ」
「確かに、それはいいかもね」チエも乗り気になった。「しかも、生態系最強のオオスズメバチとかも配置すればもっと強くなるじゃない」
「そう!黄色と黒の組み合わせは、自然界の警戒色だって言うしね!」
盛り上がってるアイナをよそにチエが呟いた「でもそれじゃあ昆虫大好き虫取り少年の一張羅みたいにならない?麦わら帽子被ってさ」
お構いなしに続ける「しかもその周りに、自然界の毒があるよってアピールするカラフルな蝶とか蛾を配置すれば、もう完璧なシールドじゃない!?」アイナは興奮気味に語った。
チエは冷静に呟く。「蝶のナチュラルな発色と、人工のカラフルじゃ、虫だって馬鹿じゃないんだから騙されないよ。人間の可視光と虫の可視光は違うんだからね?」
「うるさいねぇ、まるで五月の蝿ね」アイナはチエを一瞥し、ニヤリと笑った。「可愛いから、それでいいのよ」