最強の虫除けTシャツ
或る夏の夜の、奇妙な解決策
真夏の夜のことだった。 大都会のコンクリートは昼間の熱をたっぷりとお腹の中に溜め込み、夜になってもそれを吐き出すのをやめようとしなかった。街灯の下の空気は、まるで見えない熱いスープのようにドロリとしていた。 そんな中、二人の女が歩いていた。アイナとチエである。 二人は仕事の帰りに少しばかりのアルコールを摂取し、その勢いで、目的地があるようなないような足取りで夜道を漂っていた。アイナはハイボールを三杯。チエはワインを二杯。 それだけの分量の液体が、彼女たちの脳の「良識」という名のブレーキを、ほんの少しだけ緩めていた。
「ねえ、私、思うのよ」 アイナが立ち止まり、自分のうなじを激しく掻きながら言った。 「もし私が『進撃の巨人』のエレンだったらね、この世から一匹残らず駆逐するのは蚊だわ。人類の敵は大きな人間、巨人じゃない。小さな虫、モスキートたちなのよ。どうすれば、あいつらを駆逐させられるのかしら」
チエは、街灯の光に目を細め、学者のような顔つきで首を傾げた。 「全滅させるのは無理よ。彼らは人類よりずっと長くこの星に住んでいるし、どこにでもいるんだから。六本木駅の都営大江戸線ホームから、渋谷スカイの展望デッキまでね」 「でも蚊なんて何の役にも立たないじゃない。可愛くもないし。ただ病気を運んで、痒みを残して、安眠を妨害するだけ。存在意義が不明だわ。神様がうっかり設計ミスをしたに違いないわ。しかも痒みの原因はあいつらのツバらしいのやってられっかよ。ツバ吐いた挙句に血吸いやがる。」
アイナは不満げに吐き捨てた。しかし、チエは少しだけ蚊を擁護するような口調で言った。 「そんなこと言わないであげて。彼らだって生態系の大事な一員なのよ。ボウフラの時代は魚の餌になるし、成虫になれば鳥やコウモリの貴重な栄養源。それに、実は花粉を運んだりもしてるかもじゃん。」 「そんなの、蜜蜂に任せておけばいいのよ! あんなに可愛くて働き者なプロフェッショナルがいるんだから、わざわざ不快な羽音を立てるアマチュアに頼る必要はないわ」
アイナは一蹴した。彼女の怒りは、蚊だけにとどまらなかった。 「それにね、カナブンとか正体不明の蛾とか陰キャっぽい虫全般、夜のコンビニの光に群がっている変な虫たち。ああいうのも全部嫌い。この世から『虫』というカテゴリーそのものが私の周囲一メートル以内から消滅してほしいのよ」
チエはアイナの腕に目をやった。そこには、赤く腫れた跡がいくつかあった。 「さっきコンビニで虫除けスプレーを買って振りかけていたじゃない。あれは効かなかったの?」 「どうにもならないわ」と、アイナはうんざりした様子で腕を振った。 「あれだけ自分を薬漬けにしたのに、蚊というやつはお構いなしらしいのよ。それに、肌も荒れそうだし自分から毒の匂いがするのは気分が良くないわ。何より、あのアルコール臭。ハイボールのアルコールは歓迎だけど、スプレーのアルコールは願い下げよ」
「じゃあ、伝統的なのはどう? 蚊取り線香とか、ハッカ油とか」 チエが別の提案をしてみた。 「蚊取り線香を会社に持ち込んで、デスクの下で焚けとでもいうの? 消防法に引っかかるわ。ハッカ油だってそうよ。以前試したことがあるけれど、匂いが強烈すぎて、上司に『お前…。臭いぞ?』って言われたわ。こっちがスメハラしてたらあっちからパワハラが飛んできたのよ。踏んだり蹴ったりだわ」
「家で使えばいいじゃないの」 「それもダメよ。家には私の愛する猫ちゃんがいるの。猫の嗅覚や肝臓にとって、人間用の防虫剤や精油の成分がどれほど危険か、あなたは知らないの? 私の痒みのためにあの子の健康を犠牲にするなんて、そんなの愛じゃないわ」
アイナは愛猫への細やかな配慮を口にすると同時に突然、聖者のような真面目な顔になった。 「私はね、できるだけ虫の命を奪いたくないのよ」 チエは目を丸くした。 「さっき、駆逐するとか消滅とか言っていたじゃない」 「蚊の野郎は別よ! 蚊は駆逐する!でも、それ以外の虫たち……例えば、オフィスに迷い込んできたテントウムシとか、花壇で何かを運んでるアリとか、そういう連中の命まで奪うような『殺虫成分』を撒き散らしたくはないの。でも自分の周りには近寄ってきてほしくない。わかる? 殺さず、傷つけず、ただ『私を避けてください』という非暴力的な拒絶。それが私の理想なのよ」
チエは少し呆れたように言った。 「なるほどね。わがままだわ。傷つけずに追い払う究極のバリア欲しいわけね」 二人は公園の遊歩道を歩きながら、どうすればそんな「最強の虫除け」が実現できるか真剣に考え始めた。アルコールは、彼女たちの思考を現実の物理法則から少しだけ遠ざけていた。
「そういえば」とチエが思い出したように語り始めた。 「どっかの雑学ニュースで見たんだけど、足の裏を洗うと蚊に刺されなくなるって話があるらしいよ。ある中学生?くらいのお兄ちゃんが、妹だけがなぜか猛烈に刺されるのを可哀想に思って研究したんですって。そしたら妹の足には兄よりもずっと多様な常在菌が住んでいたらしいの。その菌が出す匂いが蚊を興奮させるのよ。だから、アルコール綿で足を拭くだけで、劇的に刺されなくなるそうよ」
アイナは即座に首を振った。 「無理ね。蚊に刺されそうになるたびに靴を脱いで足を洗える場所を探すなんて現実的じゃないわ。デートの最中に『ごめんなさい、蚊が来そうだから足の裏洗ってくるわ』なんて言える? それこそ別の意味で人が離れていくわ。もっと手軽で持続的で、かっこいい方法が必要なのよ」
アイナは空想の翼を広げた。 「例えば、牛を横に連れて歩くのはどうかしら。牛っていうのはその巨体からたくさんの熱と二酸化炭素を出すし、血もたっぷりある。牧場行った時見たけどお尻のあたりにはいつもハエや蚊が群がっているでしょう。私が牛を連れて歩けば蚊はみんな美味しそうな牛の方へ行くわ。私は牛という最強の避雷針の陰で、涼しい顔をして歩けるのよ」
チエは深いため息をついた。 「牛を連れてどこへ行くのよ。ここは東京よ?アルプスの草原じゃあるまいし。地下鉄に牛は乗せられないし何よりその牛を誰が世話するの? 虫を避けるために牛を飼うなんて本末転倒です」 「そうね……じゃあ、もっと視覚的なのはどうかしら。生物界の掟を利用するのよ」
チエがまた何かを思い出した。 「オニヤンマの模型が効果的だという話を聞いたことがあるかも。オニヤンマは昆虫界の空の王者よ。アブや蜂や蚊を、空中で捕らえてバリバリ食べる。だから、他の虫たちはオニヤンマの姿、あの黄色と黒の縞々を見ただけで『あ、あそこに死神がいる!』と思って逃げ出すんですって。最近はその模型をベランダの軒先に吊るすのが流行ってるらしいとか」
アイナの目がランランと輝いた。 「それよ! それだわ! 生態系最強の力を借りるのよ。オニヤンマを身につけるの!でも模型を帽子につけるだけじゃ足りないわ。だって、後ろから来られたらどうするの? 私は死角のない鉄壁の防御がほしいのよ」
「じゃあオニヤンマを捕まえて、糸で繋いで自分の周りを飛ばしておく?」とチエが冗談を言ったがアイナは真剣だった。 「そんなことをしたら、私は『昆虫使いの魔女』みたいに見えてしまうわ。不気味です。もっとスマートに、ファッションに取り入れるのよ」
アイナはタップを踏むと同時に空中を指差した。 「オニヤンマを身体に貼り付ければいいのよ! オニヤンマが描かれた服を着るの。それも一つや二つじゃない。全身にその意匠を散りばめるの。そうすれば、虫たちの目には私が『巨大なオニヤンマの集合体』に見えるはずよ。誰も近寄れない最強のシールドだわ」
チエも面白くなってきて、アイデアを足した。 「いいわね。それならもっと最強を重ねましょう。黄色と黒の縞々はオニヤンマだけじゃない。オオスズメバチもそうよ。あの凶悪なプレデターの模様を背負えば、虫たちは恐怖で失神するかもしれないわ」 「そう! 自然界において、黄色と黒の組み合わせは警告色なのよ。人間にとっても踏切や工事現場で使われる特別な色でしょう。それは本能に訴えかける『危険』のサインなのよ。それを全身にまとうの」
アイナの興奮は最高潮に達した。 「さらにだわ! 自然界には『自分は毒を持っているぞ』とアピールする連中がいるでしょう。真っ赤なカエルとか、鮮やかな蝶とか。ああいうカラフルで派手な色彩も配置するの。そうすれば、私の周りは『猛毒注意』の信号が四方八方に放たれることになるわ。殺さず、傷つけず、ただ『触れたら最後よ』というメッセージだけを伝える……これこそが、私の求めていた究極の非暴力防衛術だわ!」
チエは少し冷静になって呟いた。 「でもアイナ、虫の目と人間の目は違うのよ。人間にとってカラフルでも、虫にとっては紫外線が見えたり、赤が見えなかったりするわ。人工的なインクで染めたプリントで、彼らの高性能なセンサーを騙せるかしら? 虫は馬鹿じゃないわよ」
アイナはチエを一瞥しニヤリと笑った。 「うるさいわねぇ、まるで五月の蝿(うるさい)だわ。いいのよ、虫がどう思うかなんて究極的には二の次なの。大切なのはこれを身につけている私が『自分は今、最強のシールドに守られている』と確信することなのよ。そしてね……」
アイナは自分の腕を見つめた。 「単純に、可愛いでしょう?」
チエは毒気を抜かれたように笑った。 「そうね。可愛いならそれでいいのかもしれないわ。人間だもの」
それから数週間後。 アイナは、ある一着の服を身につけていた。 それは、鮮やかな黄色と黒の縞々が走り、その周囲にはどこか毒々しくも美しい、カラフルな鱗粉を思わせる模様が散りばめられたものだった。 アイナはそれを着て堂々と夏の夜道を歩いた。
不思議なことに彼女はその夜、一度も蚊に刺されなかった。 それがオニヤンマの警告色の効果だったのか、それとも単に彼女が放つ「私は最強だ」というオーラに蚊が気圧されたのか、それとも偶然だったのかは分からない。 ただ、アイナは満足げだった。 彼女のそばには、もう薬剤の匂いはしない。ただ、自信に満ちた足取りがあるだけだ。
自分勝手で、矛盾していて、それでも自分なりの美学で不都合な現実を乗り越えていこうとする。 そんな滑稽で愛おしい生き物たちが、今夜もまた、夏の熱気の中を泳いでいく。
しかし、アイナには一つだけ誤算があった。 虫たちは確かに彼女を避けたかもしれない。 だが、そのあまりにも前衛的で「猛毒注意」なファッションは、すれ違う人々を、虫たち以上に驚かせ、遠ざけてしまっていた。 彼女の周りには、確かに直径一メートルの完全なる真空地帯ができあがっていた。
アイナは誰もいない歩道の真ん中で、涼しい顔をしてハイボールの缶を開けた。 最強の虫除けは、最強の人除けでもあったわけだ。 だが今の彼女にとってそれは些細な問題でしかなかった。
なぜなら。 「だって、可愛いんだから」
彼女は誰にともなくそう言い残し、夏の闇の中へと消えていった。
