おじさんだって綺麗

嘆くおじさんたちの昼休み

娘「ねぇ〜、洗濯機に入れないでって言ったじゃん!マジで終わってる」
本藤「…。」

若者「おっさん金持ってねぇの?財布落として電車乗れないんだよねぇ。五千円くれや」
川上「あっ…じゃあこれ…。」


女社員A「西山のことセクハラとパワハラで上長報告する?笑」
女社員B「むしろスメハラの方が信憑性高いよ、上長も分かってるだろうし笑」
市浜「…。」




ある夏の昼下がり。幹線道路沿いの、とある中華料理店。
そこにはまるで時間が凝固したかのような熱気と、油の跳ねる規則的な音が支配していた。ラジオからは古い演歌のサビが流れ、天井で回る換気扇は、長年の油で茶色く染まった羽を重そうに回している。

午後一時。客足もまばらな店内に三人の男が座っていた。
テーブルの上には酢豚定食が二つ、麻婆豆腐定食が一つ。そして飲みかけの麦茶が三杯。

彼らは、いわゆる「おじさん」と呼ばれる年齢層の男たちであった。
「今日また、娘に怒られましてね」

本藤が手元のレンゲを所在なげにいじりながら口を開いた。彼の肩は心なしかいつもより少し丸まって見える。
「洗濯機に私の物を入れないでって言われたんですよ。マジで終わってると。寝ぼけて汚れたシャツを出してしまった私も悪いんですがね、そこまで言わなくても。お父さん、正直しょんぼしですよ」
川上は自分のスープの残りをじっと見つめながら、慰めるような、しかしどこか気まずそうな声を上げた。「本藤さんの娘さん、リンちゃんでしたっけ。高校生でしたよね。一番難しい年頃なんでしょうが……。本藤さんは職場でこそ“元気印”なんて慕われていますが、家庭内の落とし穴は深いんですなあ」
「慕われているだなんてそんな。でもね、娘に本気で嫌悪されるというのは、じんわりと効きますよ。内臓を少しずつ圧迫されるような、リバーブローみたいな痛みだ」
本藤は箸を両手で握り、小さく息をついた。
「よくドラマであるじゃないですか。『誰のおかげで飯が食えてるんだ!』って怒鳴るやつ。あれ、言ってみないんですか?」
市浜が、麻婆豆腐の豆腐を慎重にすくいながら、どこか楽しそうに問いかけた。
「言えるわけがない」
本藤は即座に首を振った。
「そんなことを言ったら、それこそ一生口を聞いてもらえなくなる。それにね、私が毎日満員電車に揺られて汗を流し、神経をすり減らしてお金を稼いでいるのは他でもない、娘に美味しい飯を食べさせたいからなんですよ。目的がそこにあるのに、『誰のおかげだ』と恩を着せるのは、論理的に矛盾しています。私は、イヤイヤ娘を育てているわけではない。愛しているからこそ、黙って頭を下げるしかないんです」

店内に沈黙が流れた。
換気扇の回転音だけが虚しく響く。
川上が、箸先で酢豚のパイナップルを突っつきながら、ようやく言葉を足した。
「……人のために給料を稼ぐ、か。独り身の私にはまだよくわからない感覚です。稼いだ金は自分のために使いたい。しかし……」
川上の眉間に深いシワが寄った。
「今日もまた、あの駅前の若者二人に絡まれました。『おっさん金持ってねえの? 財布落として電車乗れないんだよね、一万円くれや』と」
「えっ、またですか? あの二人昨日もいましたよ」
市浜が顔をしかめた。
「結局断りきれずに渡してしまった。自分で稼いだ自分のために使うはずの金が、知らない誰かの遊興費に消えていく。私は一体何のために仕事をしているのやら」
川上の自嘲気味な笑いは中華屋の湿った空気に溶けていった。

本藤が、静かに、しかし確信に満ちた声で言った。
「我々おじさんというのは実に弱い存在ですね。若い子には笑われ、絡まれ、家では煙たがられる。世の中にはおじさんというだけでキモチワルイという印象がいつの間にか出来上がっているようだ。我々はもはや名前と人格を与えられない、背景の一部……モブキャラのような存在なんですよ」
「負け、ですか。確かに、否定できない空気がありますね」
川上は苦笑いしながら続けた。
「さっきも社内の休憩室で若手の女性社員たちが話しているのが聞こえてきたんです。総務の西山さんのことをね。セクハラだ、パワハラだ、いやむしろスメハラ(臭いの嫌がらせ)の方が信憑性が高い、上長に報告してクビにしようぜ、なんて笑いながら」
「西山さん? あの、ちょっと声は大きいけれど、面倒見の良い兄貴分じゃないですか」
本藤が驚いた声を出す。
「そうです。我々からすれば、信頼できる良い男です。しかし、彼女たちからすれば、ただの『排除すべき対象』らしい。怖がっているフリをすれば、組織は味方をしてくれると分かっている。西山さんの積み上げてきたキャリアが、そんな冷酷な作戦会議で簡単に崩されようとしている。私は、西山さんを守るために証言をするつもりですが……正直、あの場の空気そのものが怖かった」
市浜はスープの器を両手で持ち上げ、中身を飲み干してから言った。
「ハラスメントという言葉が魔法の呪文のように使われている。フェミニズムというのも本来は『おじさんもおばさんも若者も、すべての人が平等に扱われるべき』という高潔な理念だったはずです。なのに今はどうでしょう。若さと見た目が武器になり、おじさんだけが一方的な『悪』、あるいは『敵』として記号化されている気がします」

「おじさんは、ゴキブリと同じなんですよ」
本藤が呟いた。
「そこにいるだけで何か嫌なものを連想させる。存在そのものが不快感の源泉であるかのように扱われる」
「自虐がすぎますよ本藤さん」
川上がたしなめた。
「全おじさんが嫌われているわけじゃない。ただ、我々には共通の欠陥があるのかもしれない。以前何かの本で読みました。おじさんが嫌われるのは距離の詰め方が下手だからだと。若者と早く仲良くなりたい一心で、いきなり下の名前で呼んだり、馴れ馴れしく接したりしてしまう。でもそれは、若者からすれば『キモい』し『舐められている』と感じる原因になる。我々は、取引先の相手にはあんなに慎重に距離を測るのに、若者に対しては無意識に下に見て、土足で踏み込んでしまう。まずは我々自身が、その無作法を反省すべきなのかもしれません」
川上はポケットからスマホを出そうとしたが検索するのが億劫になり、やめた。
……なるほど。被害者だと思っていたら、実は加害者だった、というパターンですか」
市浜が肩の力を抜いた。
「でも、私が言いたいのはもっと大きな話なんです。個人の振る舞い以前に『おじさん』という言葉そのものが、人格を剥ぎ取るラベルになってしまっている。我々が積み上げてきた時間も、仕事の成果も、そのラベル一枚でゴミ箱に捨てられてしまう。それがたまらなく切ないんですよ」

三人の男たちは、しばらくの間、空になった皿を見つめていた。外の通りでは、けたたましいバイクの音が通り過ぎていった。

「……しかしね」
本藤がふと顔を上げた。その瞳には、小さな光が宿っていた。
「我々はもう、どうしようもないおじさんです。ならば、肯定的に、胸を張って『おじさん』と名乗ってもいいのではないか」
「ほう。どうやって?」
「おじさんになる、歳を取るということは、悪いことばかりではないでしょう。恋愛の焦燥からも、他人の評価という呪縛からも、少しずつ解放されていく。だらしない上裸で海岸に寝そべったっていい。厚かましくなったと言われても、それもまた一種の自由だ。若者だっていずれは必ずこちらの岸に辿り着く。歳を取るのは、宇宙の法則のように、誰にも避けられない道なんですから」

誰が言ったかは、もはや重要ではなかった。
ただ、その場の空気は先ほどまでの重苦しい湿り気を失い、妙にさっぱりとしたものに変わっていた。
麦茶の中の氷がカランと音を立てて溶けた。
中華屋の古いラジオからは、再び演歌のサビが流れてきた。
「人生いろいろ、男もいろいろ、女だっていろいろ……」
歌詞が店内に響き渡る。
三人の男たちは、最後の一口の麦茶を飲み干し、席を立った。
会計を済ませ店を出ると、そこには暴力的なまでの夏の陽光が待ち構えていた。
セミの声が降り注ぐ中、彼らは彼らなりの主戦場へと歩き出す。

洗濯機に入れさせてもらえない父親も、若者に金を巻き上げられた独身男も、陰口を叩かれている会社員も。
彼らは皆、この不条理な世界で、誰かのために、あるいは自分の尊厳のために、必死に生きている。

彼らの背中は、少しだけ丸まっているかもしれない。
加齢臭がするかもしれないし、若者から見れば滑稽かもしれない。
しかし、その背中に刻まれた歳月の重み、そして他人の痛みを引き受ける静かな覚悟は、ある種の崇高さを放っていた。

そう。おじさんだって、綺麗なのだ。
その美しさに、世界が気づいていないだけなのである。

彼らはまぶしい光の中に消えていった。
どこか晴れやかな、しかしどこか物哀しい、おじさんたちの背中。

「人間万歳」
誰かは分からない、しかし確実に、そう呟いたような気がした。