応援が怖いんよ

こっちから見るメガホン

夏だ。首を回さない扇風機が隣でハァハァと音を立てて左の頬を冷まし、その奥のレースのカーテンがふわっと揺れている。外は形の定まらない雲と白っぽい空。地面は容赦ない日光に照らされ、触れなくてもわかるほど熱せられている。あの地面、素足で歩くと熱いんだよな。

目の前のテレビに映るのは山口県の甲子園地方大会決勝戦だ。汗だくの選手が画面いっぱいに映るかと思えば、応援するでもなく左右の指を交互に組み合わせて、左斜め前をじっと見つめる女子高生がフェードで写る。

これを見ていると腹の中がざわつく。俺は、あのグラウンドに立つ「あっち側」の人間でなくて、「こっち側」で座って応援している側の人間でよかった、と今さら思う。座布団に、アルプス席に、あるいはただのベンチに、座ってりゃよかったんだ。何度も足を振り上げるより、椅子に座って声張ってたほうがよっぽど気楽だろう。

野球部に入らなけりゃよかった。野球部に限らず、運動部にさえ入らず文化部に入ってさえいれば、「盛り上がってるらしいからお祭り気分で応援に行こう!」ってノリでアルプスに行けたのにな。そもそも球場行かずとも、テレビの前で他人の勝ち負けに一喜一憂してるだけの「芋野郎」でいられたかもしれない。

野球部に入ってたにしても、適当にやってベンチ外になっときゃ良かった。そうすりゃ、座って膝に肘をつけて手を合わせている、今映ったあの坊主の立ち位置になれたんだ。要は目立たない、自分がチームの「何でもない」、いてもいなくてもいい存在。

アルプス席に座って、立って、声張り上げて、また座って。その繰り返しは疲れるだろう、お疲れ様。そりゃ自分のチームだから疑いなく応援するよな。自分のチームが負けたら青春も一緒に終わるって、気楽に他人事で済ますことができる。積み上げたものが崩れた理由が「チームが負けたから」で理屈が通るやつ、羨ましいぜ。

お前ら、応援されたことあるか?名前も知らない、顔も知らない、「誰だお前」って奴に、一斉に応援されたことあるか?視界にいる全員に期待され、羨望の眼差しを向けられて、声を張り上げられたことがあるか?

俺にはある。客観的に見ても「応援されている」って瞬間が、ちゃんとある。しかもかなりの人数に一斉に、だ。

そして、あの大音量の「わぁぁぁ!」が「あぁ…」に変わる瞬間も知ってる。知ってるどころか、耳にこびりついてる。歓声が一瞬で溶けて、ため息と落胆だけが残る。視線は一斉に逸らされ、あの熱狂はなかったことにされる。人の心は都合よく切り替わる。あれが本当に腹立たしい。

応援は人を伸ばすんだ。期待されることで成長する、実際にそういう力はあってピグマリオン効果やホーソン効果って呼ばれているらしい。応援されてる時は楽しいよ。応援されると自己肯定感が爆上がりして、自分なら出来るって信じられる。一種の自己催眠かもしれないが、自分は価値ある人間だって勘違いをする。その高揚感はリアルに力になるんだよ。

拍手喝采の中で持ち上げられ、煽てられ、「おめでとう」「やっぱりお前ならやると思ったよ」って声が降ってくる。自己肯定感が跳ね上がって、まあ気持ちいいさ。自分に自信がつくし、行動に迷いがなくなる。練習も試合も余裕ができて落ち着ける。落ち着けるから試合に勝てる。そしてまた「おめでとう」。

応援の力で人は伸びる。だがそれと同時に、応援は理想を押し付ける枷にもなる。応援の声が「こうあって欲しい」という規範に変わると、そこに収まらない結果を、瞬間を、人間を、人は嘲笑や落胆で迎える。

応援には二面性があるってことだ。応援や期待は、優しいだけの贈り物じゃない。それは鎧にもなるが、同時に鎖にもなるんだ。

応援する側は、自分の応援という行為や寄せる期待が無条件に正しいと思っている。応援することは善行だと信じ込んでいる。誰かを励ます、背中を押す、その瞬間にしか見えない美しさが確かにある。だから無邪気に「勝つ」と断定する。負ければ「残念だ」って片付ける。

そこにあるのは、俺の努力した時間や想いなんて一切関係ない、応援する側の一過性の感情だけだ。応援する側は、自分の行為を善と信じて疑わないから、勝敗で人を評価することに何の躊躇もない。

応援されるのが怖いんだ。お前らの期待に沿わなきゃいけないって重圧に押し潰されそうになる。で、もし理想から外れたらどうなる?案の定だろ。「あぁ」って落胆の声が出る、がっかりの視線になる。応援してたお前らは、そこで俺への興味を失う。お前らの関心は、試合に勝つ俺であって、負ける俺には興味ないんだろ?

メガホンで応援するだろ、お前らは。
だがな、応援される側から見たらそのメガホンは「口のバケモノ」だぞ。白くもない、整ってもない見苦しい歯をギンギラギンに剥き出しにして、踊り狂う舌を放し飼いにしているのかベロンベロンに見せびらかしては引っ込めて、普段人に見せるはずのない恥ずかしい喉ちんこまでさらけ出している。
嬉々として自分のみっともない姿をさらすお前らを、俺はもう冷めた目で見てるしかないのか?ありがたくねぇよ、見せつけんな。

散々持ち上げといて最後には「残念、がっかりだよ」だろ?その後の俺に対する興味なんて皆無だ。お前らが見てるのは勝つ俺であって、負ける俺は「スワイプ」だ。興味のあるのは結果だけ。プロセスは消費される。期待というのは、短期的に消費されるエンタメのようなもんなんだ。

一体俺の価値は何なんだ?応援してくれたその群れの視線、張り上げた甲高い声、本当に俺のためだったのか?それともただの祭りの演出だったのか?

答えが出ないまま、俺は今も応援が怖い。もう二度と、あの高揚と冷却の間で踏み躙られたくないんだ。

応援しないでくれ、俺は出来損ないだ。




























なんだろ、応援される前提じゃない?
誰が今のお前を応援するの。