死因はストレス
三途の川で一休み
死んだ後の世界というのは、もっと煌びやかなものかと思っていたが、案外そうでもなかった。
そこには、音、色、情。感性で触れられるものがほとんど存在しなかった。空は灰色でもなく、青色でもない。強いて言うなら「何も塗られていない色」をしていた。
足元には、さらさらとした砂がどこまでも続いている。目の前には、ゆったりと流れる大きな川があった。これが噂に聞く三途の川というやつだろう。
七十三歳であの世を去った私は、川岸で息を切らしていた。
足腰が少しばかり心もとない。生前、病室で寝かされていたせいで鈍ってしまったのだろうか。
「おじいさん大丈夫? 手を貸しましょうか」
声をかけてきたのは、一人の女性だった。
見たところ、五十代半ばといったところだろうか。死装束というわけではないが、どこか清潔感のある、それでいて少し疲れたような顔をした女性だった。
「ああ、すまないね。ありがとね。生きてたころはもう少しまともに動けたんだがね…弱っちまったらしい」
彼は女性の手を借りて、川のほとりの大きな石に腰を下ろした。
「七十も超えるとしかしガタがくるね、俺は七十三でここにきた」
自分の状況を把握できてることに安堵しつつ、隣に立つ女性を目を細めて伺った。
「あなたは?」
「私は五十六歳でこっちに来ました。名前は……まあ、ここでは必要ないかもしれませんね。死因は肺癌でした。あなたは?」
女性は穏やかに笑った。彼は鼻を鳴らし、ポケットを探るような仕草をしたが、そこには何もなかった。
「……医者の診断書には『誤嚥性肺炎』と書かれていたよ。ごえんせいはいえん。嫌な響きだ。まるで、食べ物を飲み込み損ねた間抜けな死に方みたいじゃないか」
「あら、それは大変でしたね」
「いや、違うんだ。いいかい、お嬢さん。あれは嘘だ。医学的にはそうかもしれないが、私の本当の死因は、あんな読みづらい漢字五文字じゃない」
彼は川の向こう岸を見つめながら、吐き捨てるように言った。
「私の本当の死因は、自分の嗜好を封じられたストレスだよ」
「ストレス、ですか?」
女性は隣に座り、興味深そうに首を傾げた。
「そうさ。強烈な逃げ場のないストレスだ。私はずっと土と共に生きてきたんだ。毎日軽トラを走らせて、畑に出て、汗をかいて。毎日爪の間を茶色にする。その合間に朝日を眺めながら咥えるたばこ、窓から吐き出すたばこの煙、縁側に腰掛けながらゆっくり吸うたばこ。あれが私の人生の生き甲斐?休憩だったんだよ」
彼は空(くう)を掴むように指を動かした。
「ところがだ。肺に少し影があるとか咳が止まらないとかで、あの白すぎる場所に閉じ込められた。普段の色彩とは真逆の空間だったな。病院というところは実に恐ろしい場所だよ。あそこには『正しさ』しかないんだ」
「それは命を救う場所ですから。清潔で禁煙が正しくて、管理が行き届いているのは当然のことでしょう?」
女性の言葉は正論だった。しかし、彼は首を横に振った。
「その『当然』が私にとっては毒だったんだ。あそこは無菌状態だ。ほこり一つない、虫一匹もいない。だがね、土の匂いも排気ガスの匂いも、そして何よりタバコの匂いもしない場所でどうやって生きろと言うんだ? 医者や看護師は、私の喉に栄養を流し込み点滴で水分を補給してくれた。だが私の『魂』が求めているものは一ミリも補給してくれなかった」
彼は自分の細くなった腕を見つめた。
「構内禁煙。徹底した管理。規則、規則、規則だ。彼らは私の命を延ばそうと必死だった。それは認めるよ、感謝すべきだよ。だが彼らが延ばしていたのは単なる『心臓の鼓動』に過ぎなかったんだ。私という人間はあの病院の入り口で亡くなってしまったような気がした」
「それで、ストレスが死因だと?」
「そうだ。タバコを一本吸う権利。空を見上げて煙を吐き出す自由。それらを奪われたことによる精神の摩耗だ。最後の方はね、肺が苦しいんじゃない。タバコが吸えないことが苦しくて、呼吸の仕方を忘れてしまったようなもんだ。私は肺炎で死んだんじゃない。自分らしくあることを禁じられたショックで、生きる意欲を削り取られたんだ」
隣で聞いていた女性は少し寂しそうに目を伏せた。
「私は、おじいさんの言うことが少しだけわかります。私は肺癌でしたから治療のためにあらゆる『正しいこと』をしました。体に良い食事を摂り、言われた通りの薬を飲み、タバコの煙なんて遠ざけて暮らしてきました」
「ほう、それは感心だ。私とは正反対だね」
「ええ。でもね、私も最後は思ってしまったんです。こんなに正しく生きて、こんなに苦しい思いをして、結局はこうして川のほとりに立っている。私の人生の頑張りは、一体何度だったんだろうって」
女性は自分の白い手を見つめた。
「病院の『正しさ』は確かに命を延ばします。でもそれは個人の好みを塗りつぶして、均一な『患者』という記号に変えてしまう作業でもあります。おじいさんは記号になるのを拒んだんですね」
「拒んだつもりだったが、結局は飲み込まれたよ」
彼は力なく笑った。
「最後の一言はね、『タバコ吸いたいなぁ』だった。娘は困ったような顔をして私の手を握ってくれた。優しかったよ。でも私が欲しかったのは暖かい指じゃなくて、紙に巻かれた葉っぱだった。情がないねって怒らないでね。」「情がないね。」「皮肉なもんだ。医学的な正論が一人の男のささやかな尊厳と自由をじわじわと締め殺したんだから」
「もしも」
彼は続けた。
「もしもあの時あそこの看護師が、あるいは息子たちが私の耳元で『親父、内緒で一本吸ってこいよ』と言って点滴スタンドを貸してくれたら。私は点滴スタンドを杖代わりにして、あの非常口を抜けて駐車場の端まで歩いて行っただろう」
彼の頭の中には鮮明なイメージがあった。
燃えるような夕日。オレンジ色に染まった病院の裏手。
そこには、パジャマ姿で点滴をぶら下げた自分が立っている。
背中は丸まり足取りはおぼつかない。
しかし、その指先には一本のタバコが挟まれている。
「カチッという音と共に、小さな火が灯る。深く吸い込んで煙が肺を満たす。その瞬間、私は肺炎の患者じゃなく、一人の男に戻れたと思う。夕日を背にゆっくりと煙を吐き出す。何度思い描いたことか。」
彼は恍惚とした表情で語った。
「医学的にはマイナス百点でしょう。治療を無碍にして命を縮める愚かな行為だ。だが、その瞬間こそが私の七十三年の最後の晩餐だったはずなんだ。長く生きることよりも、温度のある瞬間を生きること。私はあの白い部屋でずっと夢見ていた」
女性はその話を聞いて、そっと拍手をした。
「素敵なシルエットですね。不謹慎かもしれないけれど見てみたかった気がします」
「だろう? 私の死因はストレスだ。」
二人はしばらくの間、黙って川の流れを見ていた。
川の向こう岸からは、時折、懐かしい花の匂いが風に乗って届いてくる。
「ねぇ、おじいさん。あっちに行ったらタバコはあるかしら」
女性が尋ねた。
「さあな。だが、もし神様ってやつがいるなら、ライターの一つくらいは用意してくれているだろう。地獄の業火はやり過ぎだな。大きくなくても、強くなくてもいい。ただ火が点けばそれでいいんだ」
彼はゆっくりと立ち上がった。少しだけ、足取りが軽くなっているように見えた。
「命の長さなんて、結局は数字に過ぎない。重要なのは、その命が何度まで上がったかだ。私は、たとえそれが『毒』と呼ばれようとも、自分にとっての『熱』を愛していたい。それが人間ってものじゃないか」
女性も立ち上がり、彼の隣に並んだ。
「ああ。自分らしく毒を食らって、自分らしく散る。これほど人間らしいことはないよ。肺炎なんてただの言い訳だ。私は私のストレスを誇りに思って、この川を渡ることにするよ」
川面が夕焼けのような色に輝き始めた。
二人は一歩ずつ水の中へと足を進めていった。
彼の右手にはもう点滴スタンドはなかった。
その足取りは、まるで畑仕事を終えて家路につく農夫のように、どっしりと、そしてどこか満足げであった。
現世の病院では、彼の遺品が整理されていた。
引き出しの奥から出てきたのは、使い古された百円ライターとボロボロの吸い殻入れだった。吸い殻入れの中身はからっぽだった。
娘はそれを見てふと彼が最後に漏らした言葉を思い出した。
「タバコ吸いたいなぁ」
その声は悲鳴のようでもあり、同時にすべてを悟ったような穏やかな響きを持っていた。
医者はカルテに淡々と「死因:誤嚥性肺炎」と記していた。
それは医学的には100点満点の正解だった。
しかし、夕暮れ時の窓辺に、幻のシルエットを見た者がいた。
点滴スタンドを杖にして、燃えるような夕日を背に、悠然と紫煙をくゆらす一人の男の姿を。
彼はもう、何からも縛られていなかった。
清潔な毒に侵されることもなく、ただの「一人の人間」として、永遠の黄昏の中に溶け込んでいった。
「死因はストレス」。
それは、システムという名の「正しさ」に殺されそうになった魂が、最後に放った、最大級の反抗の言葉だったのだ。
ライターは、大きくとも強くとも長くともなくていい、点けば良い。
彼の命の炎は最期の瞬間に、もっとも高い温度で輝いたに違いない。
