愛する食べる踊る

アモーレ・カンターレ・マンジャーレは何ですか?

それは実に見事な春の朝だった。

空はまるで誰かが丁寧に刷毛で塗り上げたかのような均質な青色をしていた。太陽はちょうど人々の背中を優しく叩くような加減の熱を放ち、風は冬の残り香をすっかり洗い流していた。

ある都市の何の変哲もない公園。そこにある茶色く日焼けしたベンチに、二人の男が座っていた。

一人は二十四歳の青年だった。彼は真新しい革のリュックを足元に置き、手元にあるノートを熱心に読み返していた。

もう一人は五十九歳の中年、あるいは初老と呼ぶべき男だった。彼はくたびれたジャンパーを羽織り、どこを見るでもなく、ただ前方を走る子供たちの影を眺めていた。

時計の針は午前十一時を指そうとしていた。

青年がふと隣の男に声をかけた。それは、春の陽気のせいで口が滑らかになっていたからかもしれないし、あるいはこれから遠く離れた異国へ旅立つ前の、ある種の「旅の恥はかき捨て」のような心境だったからかもしれない。

「おじさん。イタリアには人生を豊かにするための三つの呪文があるそうですよ」

男はゆっくりと顔を向けた。その顔には長い年月をかけて刻まれた、深い溝のような皺があった。

「呪文? 豊か?宝くじでも当たるんかい」

「いえ、もっと精神的なものです」と青年は苦笑した。「『アモーレ、カンターレ、マンジャーレ』愛すること、歌うこと、食べること。この三つを大切にすれば人間は幸福になれるという格言です」

「ほう。アモーレ、なんとか、なんとか、か。いかにも陽気な連中が考えそうなことだ」

青年は手元のノートを閉じた。

「実はこれですね、少し調べてみたら本場イタリアの格言じゃなくて、日本の旅行会社が考え出したキャッチコピーらしいんです。地中海の風を夢見る人たちのために、誰かが机の上でひねり出した『素敵な嘘』だったんですよ。最初それを知った時はがっかりしましたが、でも、考え方自体は悪くないと思いませんか?」

「話の展開が早いよ、こっちがそもそものアモーレなんちゃらを理解してないのに嘘だったんですとか言われても知らんよ。「あっ、すみません」青年は視線を落とした。
「まぁでも、素敵な嘘ねぇ」男は低く笑った。「世の中の半分は、そんなもんでできてるかんな」

青年はこれから、イタリアへショコラティエの修行に行くのだという。彼は自分の夢と、この借り物の格言を照らし合わせるように目の前の男に尋ねた。

「おじさんにとっての『アモーレ・カンターレ・マンジャーレ』は、何ですか?

「俺の、か。そんな歯の浮くようなこと考えたこともないね」

男は右のポケットからタバコの箱を取り出そうとして、ふと手を止めた。

「アモーレってのは、なんだっけ」

「愛すること、ですね。おじさんが心の底から愛しているものあります?」

「いきなり言われてもなぁ。愛ねぇ。一般的にゃ奥さんとか答えれば良いんだろうけど、俺はこのかた独り身だし、子供なんてもんも無い。愛ねぇ。分からん知らん。無い」

青年は食い下がった。

「ザ・愛!みたいな大それたことじゃなくていいんです。これがないと生きていけないとか、これを見るとどうしても微笑んじゃうとか、そういう好きなもので良いんですよ」

男はしばらく、砂場に群がる鳩を眺めていた。

「じゃあ、あそこの鳩とか? 鳩は好きだな。そこらへんで買った安物のパンを撒けば、俺のところにワラワラと寄ってくる。なんだかこいつらには俺が必要なんだなって、勘違いさせてくれる。社会の役には立っていないが、鳩の役には立っていると思わせてくれるからな」

「心の底からですか?」

青年が真面目な顔で聞き返すと、男は照れくさそうに頭を掻いた。

「……そう言われると、そうさねぇ。そんなでも無いかな。今のは、格好をつけてこじつけで答えただけかもしれない」

「じゃあ」と青年は言い方を変えた。「これが無くなったら辛い、発狂しちまう、っていうものはありますか?」

男は今度こそ、胸ポケットからタバコの箱を取り出した。銘柄はどこにでもある、安くて重いものだ。彼は一本を抜き取ると、吸い口をベンチの角にトントンと当てて、葉の詰まりを均一にする儀式を始めた。その手つきには、数十年繰り返されてきたであろう無意識の熟練があった。

「ああ、タバコかもな」

「愛してますか?」

男はライターの火を点けようとして、また止めた。吸い口を見つめ、少し遠い目をした。

「今まで別に愛してるか否かなんて考えたこともなかった。健康には悪いし、金はかかるし、 世間からは肩身の狭い思いをさせられる。だがな、思えばこいつは、俺の人生のどんな場面にもいたんだ。辛い時も、暇な時も、少しだけ嬉しい時も。指の間にこいつが挟まっていないと、自分の重心がどこにあるか分からなくなる。……ああ、そうだな。愛してるのかもな。俺はこれがなきゃ、おかしくなっちまう」

青年は、男の指に挟まれた白い棒を見つめた。それはイタリアの華やかなロマンスとは程遠いものだったが、そこには確かに、一つの「愛」の形が煙のように漂っていた。

「次は、カンターレですね。歌うことはありますか?」

男は鼻で笑った。

「歌? 俺の喉から出るのは、イビキか痰の絡んだ咳くらいだわ。カラオケなんて行かないし、鼻歌を歌うような柄でもない。歌うことなんてまるでないな」

青年は少し残念そうにノートに何かを書き込もうとしたが、男が続けた。

「だが、踊ったことはあるな。踊る……なんていうんだ、そっちの言葉では」

「踊る、はベラーレ(Ballare)ですね」

「ベラーレか。いい響きだ。俺は歌う代わりに、たまにベラーレするよ」

「え?いつ踊るんですか?」

男の目が、急に鋭い輝きを帯びた。

「競馬だよ。あれは忘れもしない、去年の秋の天皇賞だ。三連単、三十二万円。あの的中が確定した瞬間、俺の体はベンチから跳ね上がった。周囲の目なんて関係なかったな。腕を振り回して、膝を小刻みに震わせて、自分でも制御できないステップを踏んでいた。あれこそが俺の人生で最も純粋なダンスだったよ。心臓がバクバク鳴って、魂が勝手に体を動かす。歌う以上の喜びだった気がする。ただ必死に喜びを肉体で表現するんだ」

青年は想像した。競馬場のスタンドで、一人狂ったように踊り狂う中年男の姿を。それは決して優雅なバレエでも、陽気なタンゴでもないだろう。泥臭く、無様で、むせ返るようなおじさんの舞。

「素敵ですね。魂のダンス、ベラーレですか」

「ああ、外れた時は地獄のような沈黙だがな。当たった時のあの瞬間だけは、俺はイタリア人よりも情熱的に踊っている自信があるよ」

「最後は、マンジャーレ。食べることです。イタリアに行く僕はこれから美味しいチョコやケーキをたくさん作るつもりですが、おじさんにとっての最高の食事は何ですか?」

男は即答した。

「カップラーメン」

青年は拍子抜けした顔をした。

「えっ、カップラーメンですか? もっとこう、お袋の味とか、行きつけの定食屋の焼肉セットとか、高級寿司とかそういうのは……」

「いや、カップ麺がいい」男は断言した。「あれは裏切らない。お湯を入れて三分、あるいは五分。どこの誰が作っても、いつどこで食べても、あのジャンクな塩気と油が俺を包んでくれる。こだわりがないことこそが、最大のこだわりだ。高いコース料理なんて、緊張して味がわからねぇよ。テレビを眺めながら、ズズーっと啜るあの数分間。あれこそが俺にとっての、至高のマンジャーレだ」

青年は黙って、自分のノートを見つめた。

そこには、当初描いていた「イタリアの陽気な生活」のイメージとは真逆の言葉が並んでいた。

• 愛すること(Amare):タバコ

• 踊ること(Ballare):競馬の的中

• 食べること(Mangiare):カップラーメン

イタリアの格言なら、海辺で恋人とワインを飲み、カンツォーネを歌いながら新鮮な魚介を食べる姿が浮かぶだろう。しかし、目の前の男の三拍子は、どうしようもなく「日本の場末」の香りがした。

ヤニ、ギャンブル、即席麺。

世間一般の「幸せな生活」というカタログからは、真っ先に除外されそうな要素ばかりだ。

青年は少しの間沈黙した。公園には相変わらず穏やかな風が吹き、平和な時間が流れている。

「おじさん。僕、最初はおじさんの話を聞いて、少し寂しいなと思ったんです。格言とは程遠い、泥臭いものばかりだったから」

男はタバコの煙をゆっくりと吐き出した。煙は春の光に透けて、複雑な形を描きながら消えていく。

「だろうな。キラキラしたお前の夢には、毒にしかならない話だ」

「でも」と青年は声を強めた。「話を聞いているうちに、なんだか羨ましくなってきたんです。おじさんのアモーレも、ベラーレも、マンジャーレも、全部おじさん自身が選んで、おじさんの血肉になっている。誰かに押し付けられた幸福の形じゃなくて、自分だけのアイデンティティだ。それこそが、本当の意味で『好きなもの』ってことじゃないかって」

男は少し訝しがるように青年を見た。

「アイデンティティ、か。難しい言葉を使うな」

「たとえ無様でも、泥臭くても、それがその人を支えているなら、それは最高に輝かしいことなんです。タバコを吸って落ち着き、競馬で踊って、カップ麺でお腹を満たす。そのサイクルの中に、おじさんの確かな人生がある。これこそが、僕がこれからイタリアで探そうとしていた『最高のチョコ』の正体かもしれない」

男はタバコを足元の携帯灰皿に入れ、ふう、と息をついた。

「買い被りすぎだよ、兄ちゃん。俺はただの、だらしないおじさんさ。でもな、このだらしない毎日が、案外気に入ってるのも事実だ」

青年は立ち上がりリュックを背負った。

「ありがとうございます、おじさん。僕、イタリアでショコラティエになったら、いつか『ヤニと競馬とカップ麺』の味がするチョコを作ってみますよ。嘘ですけど」

「ハハハ。そんなもん、誰も買わねぇよ。だが、もし作ったら一個くらいは食べてやる。お湯を入れて三分待てばいいのか?」

「いえ、チョコですからそのまま食べてください」

青年は笑顔で歩き出した。

男は再びベンチに深く腰掛け、去りゆく青年の背中を見送った。

青年が公園を去った後、男はもう一本タバコを取り出した。

彼は思う。

アモーレ、カンターレ、マンジャーレ。

それは遠い異国の格言か、もしくはえんぴつで作られたキャッチコピーかもしれない。

だが、その言葉に当てはめる中身は、一人一人が自由に選んでいいはずだ。

ある人にとっては、それは庭に咲く一輪の花であり、毎朝6時半のラジオ体操であり、焼きたてのパンかもしれない。

またある人にとっては、それは深夜のラジオであり、趣味のプラモデルであり、キンキンに冷えた缶ビールかもしれない。

立派である必要はない。

他人に誇れる必要もない。

ただ、それが自分を自分たらしめているのであれば。

男はタバコに火を点けた。

一口、深く吸い込む。

肺の奥に熱い煙が入り込み、脳の隅々まで「自分」が行き渡るような感覚。

これが俺のアモーレだ。

そして、尻にひいていた競馬新聞を取り出す。

今週末のレースに思いを馳せる。

もしもまた的中したら。

またあの、不器用で情熱的なベラーレを踊るだろう。

腹が減ったら、家に帰って五分待つのだ。

特売で買った、少し贅沢な「肉だしうどん」のカップ麺が待っている。

それが俺の、至高のマンジャーレだ。

自分らしく生き、自分らしく毒を食らい、自分らしく踊る。

「愛する 食べる 踊る」

それは、自分らしく生きるすべての人間への、静かな賛辞である。

この泥臭い肯定感。

それこそが、この星の片隅で繰り返される、ささやかな人間の人間たる生活なのだった。

公園の時計は十一時十五分。

青年は空港へ向かう電車に乗っただろう。

男はベンチで、ゆっくりと煙を吐き出した。

太陽は相変わらず、すべての人々を等しく温めていた。